hiramesのブログ

サラリーマンを辞め、起業をするまでの軌跡

幸せの総量は決まっているのか

これほど不景気が続くと他人と協力して、面白いことをしようと考える人間が減り、どうにか相手を利用して、自分だけ儲かれば良いと考える人間が増えてくる。これは不景気で、少ないパイを奪い合い、勝ち取らなければ、生き残れないと勘違いから生まれる発想だと僕は思う。

なんというか、他人の幸せを奪い、自分の幸せを増やすしか、幸せになる方法はないという了見の狭い価値観が蔓延っている気がしてならない。お互いに協力して幸せを創造すれば良いのにね。

相手を出し抜いて、自分だけが幸せになろうとする人間が増えたのは、長らく続く不景気のせいなのかも知れない。そういう僕も、自分とその周りの人間が幸せになれば、関わりのない人間がどれだけ不幸であっても、気にすることはない。もし仮に、自分や身内、仲間が不幸になったら全力で助けようとする。義理人情という古めかしい日本の伝統を守り、仲間のことは助けると思う。

だけど、全人類の幸せのために何かをすることはない。時間的、金銭的、精神的な余裕があれば、世の中のために、それこそ毎日、ボランティアに明け暮れるかも知れない。そういった了見の狭さは、全てが不景気で、一般化した「少ないパイを奪い合い、勝ち取らなければ、生き残れない」と勘違いから生まれた発想がそうしている。

会社にいても、少ないポストを争い、見ていて醜い出世競争をしたり、競合他社とお客さんの奪い合いをしたり、本当に嫌になる。何というか、サービスの質で勝負をするのではなく、身を削り低価格で勝負しなければならないとか、本当に嫌になる。結局、価格を下げるということは、サービスの質を下げることに繋がり、誰も満足のしない負のスパイラルに繋がる。

もちろん、誰もが幸せになる桃源郷のような世の中を夢見るような子供ではない。そもそも、幸せな社会というのは、自分のエゴを通せる社会で、誰かのエゴを通せば、誰かが我慢をしなければならないのが自然の摂理である。だけど、僕は嫌だな。誰かのために、我慢をしないといけないなんて、世知辛い世の中だよ。少なくとも、僕は嫌いな人のエゴのために我慢するなんて、何があっても無理。